ミニコラム
宗教への思い(昭和初期から・障壁画家としての活躍)
印象にとって、昭和初期は、官展や青甲社展への出品、そのほか依頼画や献上画の制作を進行させるなど、日本画家として躍進した時期でした。
1933(昭和8)年には、画塾東丘社を創設、主宰して後進の育成にも力を入れました。また、1936(昭和11)年には母校の京都市立絵画専門学校教授として教鞭を5年ほどとり、京都画壇の中心的な役割を果たします。
さらにこの期は、仁和寺や東福寺、東寺など有名寺院の障壁画を描く機会を得て、印象が宗教画家として一層大きく華開いた時期でもありました。

印象と障壁画制作との関わりは、1925(大正14)年に京都・大徳寺の塔頭である龍翔寺の襖絵、杉戸絵にはじまります。その後、京都を中心に十数か所の寺院の襖絵、天井画、壁画、柱絵などを制作し、晩年の1971(昭和46)年、京都・法然院の襖絵制作にいたるまで、精力的に取り組みました。印象が手がけた障壁画の数は、およそ600面にも及びます。

東福寺天井画《蒼龍》制作中の印象

四天王寺壁画《四方仏》制作中の印象

   【大正〜昭和前半に制作された障壁画】
   1925(大正14) 京都・大徳寺龍翔寺書院 襖絵(24枚)・杉戸絵(8枚)
   1931(昭和6) 京都・仁和寺黒書院 襖絵(52枚)
   1933(昭和8) 京都・東福寺本堂 天井画(1面)
   1934(昭和9) 京都・東寺小子房 襖絵(48枚)
   1935(昭和10) 奈良・信貴山成福院 襖絵(40枚)
   1936(昭和11) 京都・醍醐三宝院純浄観 襖絵(42枚)
   1942(昭和17) 和歌山・高野山金剛峯寺根本大塔 壁画(16枚)・柱絵(16枚)
   1942(昭和17) 大阪・四天王寺宝塔 壁画(20枚)・柱絵(12枚)[戦火で焼失]

印象の作品制作の量は決して少なくなく、間断なく作品を作り上げています。1942(昭和17)年には、高野山金剛峯寺根本大塔と四天王寺宝塔の壁画や柱絵が完成。ほぼ同時期に二寺の大規模な制作に打ち込んでいました。この間、他にも複数の出品作を制作していたため、当時の印象は休む暇なく画面に向き合っていたといえます。

仏画を制作する際に印象は、関連する経典を全て読みこなし、詳細な研究のもとに執筆していました。また、寺院への奉納画を描くときには、必ず般若心経を唱えながら真冬でも井戸の水を浴び、身を清めて制作に取り組んだといわれます。印象は、自ら厳格な仏教信仰者となって、仏画制作に没頭していました。

《観世音》 1937(昭和12)年・第1回新文展
印象が障壁画家としてもてはやされたのは、装飾性を持ち合わせた華麗な画風、大作が得意で画域が広いことによることはもちろんですが、僧侶も舌を巻くほど宗教的な言葉、観念に造詣が深かったことが負っています。同時に、体が決して丈夫でなかった印象が、これほどの量の障壁画を残すことができたのは、宗教への思い、つまり信仰心が支えていたと言わざるを得ません。


 【3】海外の影響(新しい色彩・デフォルメの登場)

←ミニコラム一覧に戻る