印象の画業 Column
新造形への道・美術館構想(抽象表現への移行と晩年)
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1955年(昭和30年)に日展に出品した《生活》は、幾何学な構成によって表された抽象画でした。これを機に、昭和30年代には、画風は抽象表現へと移行し、ついには墨の動きと色彩を混合させた躍動的な抽象作品を描くことになります。
伝統を打ち破って新たな芸術の創造を目指すことが真の伝統である、という印象の理念に基づく作品は、日本画の画材である墨や岩絵具を用いた独自の抽象表現となり、印象自身によって「新造形」と名づけられました。
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このようにして、印象は構図と色彩の組み合わせによる装飾的な抽象様式を独自の表現として生み出すことに成功。この年に文化勲章を受章し、文化功労者として顕彰されます。そして、同年の第4回新日展に、印象が挑んできた日本画材による抽象表現の代表作といえる《交響》を出品します。
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1966年(昭和41年)10月、印象は衣笠にある自宅の隣接地に堂本美術館を開館させました。美術館は外観から内装、ドアノブやライトに至るまで、すべて印象自身のデザインです。印象はヨーロッパで見学した宮殿や邸宅を用いた美術館を参考に独自の美の可能性を追求したといわれています。日本画の域を超え、彫刻、陶芸、ガラス、金工、染色なども手がけた印象が創り出した堂本美術館は、印象作品の集大成であるといえます。
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1968年(昭和43年)頃より、印象の作品には再び具象的なものが描かれるようになってきます。1975年(昭和50年)、病室にて《善導大師》を描きました。善導大師とは、7世紀に中国で実在した名僧です。この作品は、印象の絶筆となりました。
当時ヨーロッパではアンフォルメルの勢いが盛んでした。アンフォルメルとは「不定形なるもの」の意を持ち、1950年代にフランスで美術評論家ミシェル・タピエの主導によって起こった前衛芸術の一動向です。タピエは、印象を日本の伝統を持ち合わせていながら、一方では表現に対して様々な冒険をする前衛的な芸術家であるとみなし、イタリアで個展を開催するよう招きます。そして、1961年(昭和36年)5月、トリノ芸術家協会主催による大規模な個展を開催、《風神》《雷神》など約50点を出品し、その日本画特有の素材が巧みに利用された独自の表現は、海外で大きな関心をよびました。
※年齢はその年の満年齢を記載しました。